仮立舎ホーム・ページ 立読みコーナー  『熱情 悪世に逆流す』   
                               立読みコーナー目次 

 よく見れば、実際そういう人に出遇った方も、これは、いらっしゃるわけであります。多くの方々が、そういう人と未だ出遇っていないというそういう実情もあるわけであります。そうした事実を踏まえれば、偶々出遇えた人は幸運である、そして未だ出遇えない人は不運であると、こういうふうに片付けてしまっていいものかどうか。もしも、やはり幸運・不運ということになるならば、それはそのぅ、「人に出遇う」っていうことが、「一切衆生を成仏せしめる法」とは言えないわけであります。ま、「人に出遇う」っていうことが、なにか競馬の馬券を買うような、サイコロを振るような、そういう「賭け」のように見えますけれども、しかし人の一生涯は、そうした単に賭け事のようなことでは済まされないという面もあるかと思うのであります。

          (八)

 で、そういうことがありましてですね、自分はこの問題に対しましてですね、ひとつまぁ思い起こされておりますのは、この言葉なんですね。一一二頁ですね。『観無量寿経』のいわゆる「三心」で有名なところですね。漢文でいきますと六行目ですか、
  若有衆生、願生彼国者、発三種心、即便往生。何等為三。
  一者至誠心、二者深心、三者回向発願心。具三心者、必生彼国。
と。ご存知、善導大師が『観経』のこの経文に『観経』一巻の眼目が説かれているんであると驚かれ、ここを着眼されていかれていくわけであります。
 ま、なぜ善導大師が「三心」に目を留められ、また執拗に拘って、その、仏陀が「三心」を説かれるお心をですね、執拗なまでに尋ねていかれたのか。「三心」に目を留めていかれるその背景に善導がどういう問題を抱えていたのか。当然ながら、尋ね……問われるわけであります。で、自分に思わされるのはこの言葉なんですね。一つは、
  願生彼国者、発三種心、即便往生。
ということですね。それともう一つは、
  具三心者、必生彼国。
ですね。
 つまり、「彼の国に生まれんと願わん者は」でありますからですね、これはひとつですね、「浄土に往生すること」が、あらゆる人を、実は生死を出離せしめるんだっていうことが一点ハッキリ見出された者において、出てくる問題であろうとも思うんですね。つまり自分がひとつ思いますことは、この「必生彼国」っていう言葉なんです。「必ず彼の国に生まれる」っていうことですね。
 そして「彼の国に生まれる」っていうことは、そういう「人と出遇える」っていうことと見ますならば、「必生彼国」ということは、「必ず浄土に往生できる」ていうことでありますから、「必ず安危を共同してくれる人に出遇える」んであると、こういうことが『観経』の経文において語られているわけであります。
 ま、ちなみに言えば、やっぱり浄土のことを「彼の国」ということも、やはり出遇うことによって開かれてくる交わりっていう意味が、あると思うんですね。これはまあ出遇うっていうことは偶然でありまして、我われの思慮・分別を超えていくっていう意味がありますから、そうした面で「彼の国」っていうことも、逆に言えば偶然・偶々出遇うことによって開かれてくる繋がり・交わりという意味が、「彼の国」っていう言葉には言い表されているかと思うわけであります。
 ですから、その「彼の国に必ず生まれる」ことができる、必ずそういう人と出遇うことができるという、驚くべき表現が、ひと言「必生彼国」という言葉でもって言い表されていると。じゃあ、どうやったら必ず出遇えるのかっていいますとですね、「至誠心」「深心」「回向発願心」の、この「三心」を具えたならば、誰にでもそういう安危を共にする人に出遇えることができるんであると、こういうことが『観無量寿経』の経文にハッキリと、これは書かれているわけであります。
 ま、おそらくこの言葉に善導大師は非常に驚かれたんじゃないかと思うんですね。ですから当然、こういう言葉に着眼されるということは、とりもなおさず善導大師は、どうやったら出遇うことができるのかと、こういう問題関心をもっておられたのではと、推察されるわけであります。それも単なる偶然の出遇いということではなくして、どうやったら、誰にでも、必ず、出遇うことができるか。いつでも、どこでも、どんな人でも、どうしたら必ず出遇うことができるか、と。これがひとつ、問題関心としてあったと思うんですね。
 で、これはご存知のように、さらに、今ひとつ思っていますのは、この言葉なんですね。これはまあ、大竹さんと絶えずぶつかりあうところなんでありますがですね、一七六頁のですね、善導の言葉であります。終わりから二行目であります。
  「南無」と言うは、すなわちこれ帰命なり、またこれ発願廻向の義なり、「阿  弥陀仏」と言うは、すなわちこれ、その行なり。この義をもってのゆえに、  必ず往生を得。
と。有名な善導大師の「六字釈」であります。「言南無者 即是帰命、亦是発願回向之義。言阿弥陀仏者、即是其行、以斯義故 必得往生」と。こういう形で「南無阿弥陀仏とは」ということについて、明らかにしてくるわけであります。
 で、これは何を「南無阿弥陀仏の心」を明らかにしているのかといえば、「この義をもってのゆえに、必ず往生を得」と、「必得往生」と。つまり、あらゆる人を必ず往生させるのが、実は「南無阿弥陀仏」なんであるということが、この「六字釈」でもって言い表されてくる、ごくおおまかな内容になってくるのであります。
 つまり、「六字釈」でもって「南無阿弥陀仏」を明らかにするっていうことで、善導が何をそこに問題にし、何を明らかにされてきたのかといえば、やはり「必得往生」。その道筋を問題にされていたということですね。つまり逆に言えば、どうしたら誰でも必ずそういう人に出遇えるのか、という問題をずーっと、これはやはり抱え抱え、問い続けておられたということが、こういう言葉の背景にあると思わされるわけであります。
「以斯義故 必得往生」でありますから、「必得往生」である、「必得往生」を成り立たせる道を「六字」の心を明らかにするっていう形で、ここに語っているということになってくるわけですね。
 まあ、『観経』の経文にしましても「必生彼国」、あるいは「六字釈」の「必得往生」にしましても、そういうことを裏返して言えば、「どうやったら、誰でも、必ず、出遇うことができるのか」と、こういう問題ですね。善導大師は、「往生の行」を課題にし、「往生の行」を明らかにするっていうことを生涯の課題としていかれたと教えられるわけでありますけれども、じゃ、その善導大師の一生涯を貫いて問い続けていかれた「往生の行を明かしていく」ということはどういうことであるのかといえば、「誰でも、必ず、そういう浄土に往生することができる道」というのを、そこに求めていかれたわけでありまして、それが具体的には、「誰でもが、必ず、同行・同朋である方々に出遇える道」ということを尋ねていったと、こういうことではないかと、自分は思わされてくるわけであります。
 ま、これはそういう面でいえば、大事な問題だと思うんですね。ま、僕なんか、どうしたら出遇えるのかなあって、漠然とずっと若い時から思ってきたつもりですし、ずっと今までも問うてきたつもりなんですけれども、「必ず、出遇える」っていうことを、どこまでハッキリとしていたのかとなると、心もとなく、今にして思えば感じられてくるところなんであります。

          (九)

 この問題が、「国」の問題に対しまして、「阿弥陀仏の名」ということで言われようとしてくる問題なんだと、僕は、受け止めているんですね。
 「阿弥陀仏の名」が、これは「南無阿弥陀仏」であるというように、これは教わるわけであります。そこでの「阿弥陀仏の名」っていうことは、「阿弥陀仏」という仏さんの名前を表わすということではないんだ、と。ま、広くいえば仏さんの名前も表わすということも言えるんでしょうが、名前ということではなくして、「声」である、と。
 「阿弥陀仏の名」というのは、「南無阿弥陀仏」なんですが、「南無阿弥陀仏」というのは、これは阿弥陀さんという仏さんの名前ではなくして、これは、我われにそのぅ、呼びかけてくる声なんであると。何を呼びかけるかといえば、建立する「国土」に我われを呼びかえしてくる声が、妙声といわれてくる意味なんであると、こういうように教わるわけですね。 
 ま、「浄土に往生せよ」と、あるいはもっと言えば「我が国に生まんと欲え」とこういうふうに我われに向かって呼びかけてくる声。これがあのぅ阿弥陀仏の「名」ということであらわす意味なんだと、これは、そういうふうに教わるわけであります。これはまあ、なかなかはっきりしないことですけれども、そういうように教わってきたわけであります。
 ですから「名」というのをその面で「国」に対していうならば、建立する「国」に我われを呼び返すはたらき。具体的には、「国」に呼び返す呼びかけの声、これが「名」ということであらわす意味であると。ま、こういうことであるわけですね。これはまぁあの、「名」ということでそこにどういうことが言われているのか、いかなることがそこに内容としてあらわされてくるのかといえば、建立する国に呼び返す呼びかけの声ということなんであると。これがまぁ一つあるわけですね。
 で、あのぅ、「国」に対して「名」というのが呼び返す呼びかけなんであるということも、これは随分言われてきているわけであります。で、これはまぁ、私がはっきりしないことなんですけれども、「国」に呼び返すのが「名」であるということはいろんな先生が教えてくださるんですけれども、じゃあそのぅ「国」に呼び返すということはどういうことなのかと。ま、具体的には我われがその「国」に呼び返されるとはどういうことなのかと。逆に言えば、我われを「国」に呼び返すということはどういうことなのかと。
 ま、これですね、私はどうもこのところがですね、はっきり、わかったようでなんかわからないということなんですねえ。もっと言えば、だから、「国」に呼び返すということが、そもそもどういうことなのか。あるいはまた我われがもしも「国」に呼び返されたとするならば、それはいかなることなのか。どういうことをもって我われが「国」に呼び返されたと、こういうふうに言えるのであろうかと。こういうそのぅ、問いですね。
 こういう問いが私にありまして、特にこぅ、気にかかるんです。ですから、呼び返されるっていうことがこういうことなんであるということが教えてもらえればそれでいいわけでありまして、ただまぁこういう場所でありますから、自分なりにこういう問いを立てまして、それに対してこう受け止めているんだということ申し上げるかたちで、問題を提起するという形にさせてもらいたいと思うわけであります。
 ですから、呼び返すということが「名」ということであらわすならばですね、どういうふうにして我われを国に呼び返すのかということは、とりもなおさずですね、どのようにして「名」を成就するのか、あるいはどうしたら「名」が我われの上に成就するのかと、そういう問いにもなるわけでしょう。
 ま、やっぱり自分はこの問いだけは、ひとつ出しておきたいと、今回思っていたことなんですね。

          (十)

 念仏は念仏でも我われのほうは称名念仏でありますから、称名念仏といえば表立っては「ナンマンダブ」「ナンマンダブ」ととなえることですけれども、じゃ、その「ナンマンダブツ」「ナンマンダブツ」をとなえることがどういうことなのかということにも繋がる、そういう問いにもなってくるわけですね。
 で、その問いに対しまして、で、これはまぁ先に申し上げておいたほうがいいかと思うんで出しておきますけれど、ま、自分が少し受け止めた範囲でその問いに対して見ておきますとですね、どうやったら必ず出遇えるのかということにつきまして、それは答えとしまして、それは「凡愚の身を自覚すること」なんだ、と。こういう明確な答えが指し示されているんだと思うんですね。
 ですから、凡愚に身に目覚めさえするならば、誰でも安危を共同してくれる人と出遇うんであると。つまり、誰でも浄土に往生することができるんであると。そして、凡愚の身に目覚めることは、凡愚の身を自覚することは、これは誰でもできるんだと。凡愚の身を自覚することは誰でもできるんだから、だから凡愚の身に目覚めさえすれば誰でも安危を共同する人と出遇うことができるんであると。これがまあ、最近自分に受け止められてきたことなんであります。
 凡愚の身に目覚めるっていうことを「信心」っていうことで言い表すならばですね、どうしたら必ず人と出遇えることができるのかという問いに対しては、それは「信心を得ることによってである」と、こういうふうにひとつ自分なりには、先ず道標が立てられてくるということであります。
 一応そういう面でいきますと、そこから逆に見直していきますとですね、やっぱりそのぅ称名念仏っていいますか、「ナムアミダブツ」ととなえるっていうことで、どういうことをあらわすのかっていいますと、どうしたら必ず出遇えるのかっていう問いに対しまして、はっきりと、これこれこうすれば誰でも人に出遇えるんであるという答えが見出されること、これがひとつ、我われの上に「名」ということが成就する内容として、自分は取りたいと。ですから更にいえば、どういうふうに答えが出てくるかといえば、それは「信心を獲得することによってなのである」というふうに、明確な答えがこの身に見出されてくるということになろうかと、ま、自分はそういうふうに受け止めているわけであります。
 ですから善導が『観経』の「三心釈」で、「至誠心」「深信」「回向発願心」、これ、あるいはまたさっき申しました善導の有名な「六字釈」でもって、何をそこに明らかにされようとしているかといえば、凡愚の身に帰ることなんであると。凡愚の身に帰りさえすれば、誰しもが、浄土に往生できるんであると。ま、この単純なことを『観経』の「三心」を説かれる仏陀の教説に感得された。同時にまた、「六字釈」でもって言い表そうとされた。ま、こういうことだと思いますですね。ま、そこは大まかな目安として、僕は受け止めてみたいんですね。
 ですからこれは当然、善導がそういうふうに気が付かれるということはですね、善導個人でわかるわけではなくして、やはり、いろんな方々とそのぅ出遇うことを通して、いろんな人を通してそこに気が付かされたということになってくるわけだと思いますですね。ま、自分で言えば、今申しましたように、例えば加藤さんとか、あるいはまた大滝さんのことが思い起こされるわけであります。ま、大滝さんのことで言いますならば、末期の癌に罹りまして、もう、死ぬのが嫌だとか、死にたくはないと、こういうを言われるわけであります。そういう身に、癌になることを通して立ち帰っていかれたお姿ということを、思うわけであります。同時にそれは加藤さんも最期までですね、「私は最後まで善人でねえ」って言われるのが口癖でありました。こういうお姿のところに、信心を獲得することが浄土往生の道なんであるということが指し示されていると。ま、そのことを善導は「六字釈」であらわしますし、『観経』の「三心」の背になる感得をされたということが、自分はあろうかと思うわけであります。
 いずれにしましてもこれはあのぅ、問題だけを少し出してみたんですけれども、どうやったら浄土に往生できるかという、こういう問いに対して、えー、これはなかなか見つかるものではないかとも思うんですねえ。そこに善導大師や法然上人のご苦労があったんだと思うんですね。善導がやはり一生涯を懸けて明らかにしておりますのはですね、「信心ひとつ」によって浄土に往生することができるんであると、このことを一生涯懸けて私どもに教えてくださったということを、まぁ、私は思うんですね。
 ま、それを思いますとですね、先走ることではないんですけれども、えー、「どうしたら必ず出遇えるのか」に対しましてですね、それは、「凡愚の身に目覚めること」によってなんであると、「信心を得ること」によってなんであるというように、はっきりと答えが出される。逆に言えばですね、信心が我われを浄土の往生せしめるんであると、はっきりと頷かれてくるっていうこと。えー、それが「名に称う」ということであらわす意味なんだと思うんですね。
 逆に言えば、「国」に呼び返すっていうことがですね、結局、どうやったら浄土に往生できるのか、浄土に往生できる道が見出せ得えない我われにですね、こうすれば浄土に往生できるんだっていう道が、浄土往生の道が私どもにはっきりと指し示してゆくっていうこと、これが我われをして「国」に呼び返す、ということで言われてくることの意味として、自分として取りたいんですね。
 そういう面でですね、どうやったら出遇えるのかということを私どもの面でですね、はっきりとですね道を指し示してゆく、その道をはっきりと明瞭にしてゆく、明らかにしてゆくっということを、「国」に呼び返すっていうことで言い表すのだろうと。
 だから僕らからいえば、こうすれば必ず浄土に往生できるんであると、あるいはですね、あのぅ、必ずそういう人と出遇うことができるんであると、そういう往生の道がはっきりと見出される、あるいはそういう出遇っていく道にはっきりと答が出されるということ。これがあのぅ、「国」に呼び返されていくということの内容なんだと、私はそういうふうに見たいわけであります。
 ま、これは善導なんかを見ても、なかなか答えが出てくるわけではないですから、僕らが軽々に申し上げることもできないんですけれども、ま、自分の上に少しそういうふうに道標ができてきたということで、もう一遍見直されるということが出てきています。まあ、これは「一行の会」でずっとやってきていることでありましてですね、朝倉さんのこの間の秋の還暦の時に問題になったことである、第十七願の問題ですね。
 諸仏をして「名」を称せしめる、あるいは諸仏に称名せしめると。これが第十七願の内容でありますけれども、じゃあこれは諸仏をして「名」を称せしむるっていうことがどういうことなのといえばですね、えー、出離生死する道は浄土往生なんであるということがはっきりした上で、しかもなかつ浄土往生の道が見出し得ない我われにですね、実は浄土往生の道はですね、「凡愚に目覚めること」なんであると、「信心ひとつ」が獲得されることによってなんであると言われるんですね。見出さしめるという内容が、「諸仏称名」ということで表されてくる内容ではないでしょうか。
 ま、信心が一大事として見出せ得ていない我われに、一大事の問題は信心なんだというふうに見出さしめる願心というのが、第十七番目に誓っている諸仏称名の願ということですね。これはまあ、自分の上でいいますと、私の分限を超えているわけでありまして、これはいかに何か自分の頭を絞って考えても、これは出てこないことであったわけです。やっぱり先立って生きている方々が身をもって示してくださることでもって、教えられるわけでありましてですね、とてもとても自分には……、自分の分限を超えているっていうことを思うわけであります。
 ま、ひとつ、浄土往生の道はこれは、凡愚に目覚めていくことなんであると、信心を獲得してくことなんであると、ま、こういうふうにひとまず、これはあの、申し上げておきます。これはまぁ、いろいろとご意見があろうとは思いますけれども。まぁ、そんなことをひとつ思うわけであります。

          (十一)

 それを少し見て参りますと、つまりそのぅ、浄土往生の道は信心を獲得することなんであるという面でいいますと、そこから初めて、じゃあ、どうやったら信心が獲得できるのかということが、あるいは、どうやったら凡愚の身に目覚めることができるのかということが問題になってくるわけであります。
 ま、宗教とは、根本問題に取っ組み、根本問題を明らかにする教えであるわけでありまして、そこで言えば、まず根本問題とは出離生死、つまり成仏っていうことでいいますし、その根本問題が「国土」、つまり浄土に往生する、往生浄土として掘り下げられてくることがあると思います。根本問題ですから二つも三つもあるわけではないのでありまして、これは唯一のわけでありまして、これは一大事の問題が出離生死という問題。その出離生死という問題が、往生浄土の問題として掘り下げられてくる。その往生浄土の問題が更に、「名」に称う・「称名」として掘り下げられてくると。ま、これは往生に対して言えば念仏ということで言い表してくる内容なんだと、僕は見ているんですね。
 ですから念仏をもうしていくとは、そこに先ほど申しました浄土往生の道をはっきり尋ねていくっていうのが内容としてあるんではないかと思います。更に言えば、浄土への道は信心を開くことなんであると、いうように明瞭にしてゆくっていうことが、お念仏をもうしていくということの内容なんであるというように、ま、自分は取るんです。ですからまぁ、成仏、往生、更には念仏と根本問題が拡がりまして、それを受けまして、じゃあどうしたら凡愚の身に帰るのかという信心の問題として更に、根本問題が掘り下げられていくと、そういうことがあるかと思うんですね。成仏から往生へ、往生から念仏へ、さらに念仏から信心へと、こういう次第があろうかと思うんですね。
 軽々に申し上げられないことなんですけれども、ひとまず、道標といいますか、目安としては成仏、それから往生、念仏を通して、信心ということに掘り下げられてくるということがあると思いますですね。
 ま、そういうふうに一応申し上げましてですね、これは、冒頭に申し上げましたんですが、これは何でもないことなんですが、凡愚の身に目を覚ますっていうことが、我われの一生涯において一番大事なことなんであるということですね。ま、教えてもらってきたわけですけれども、これは、今日どうでしょうかね。
 ま、先ほど冒頭で、絞りきれない、削れないっていうことを申し上げたんですけれども、これもなんていうか、根本問題・一大事がはっきりしていないっていうことでありまして、これはまぁ、善導・法然を通しますとですね、我われにとっての一大事は「信心ひとつ」であるっていうことが、それこそ凡愚の身に目を覚ましていくことなんだと、こういうふうに指し示されてくるわけでありますけれども、そういうふうに指し示されたからといって、我われの上におきましてですね、「凡愚の身に目を覚ます」っていうことが何よりも一番大事なことなんであると、そういうふうに頷かされるか・受け止められるかとなると、これはちょっと容易ならない問題があるんじゃないでしょうか。
 ですからまあ、念仏がもうされるっていう意味はですね、そういうふうに凡愚の身に帰るということがこの身の一大事であるということに頷かされてくることであると申しますならば、なかなかそのぅ、お念仏をもうしていくっていう歩みも、なかなかこれは容易でない歩みっていうことが指し示されていることを、思いますですね。
 これは、そうしたまぁ、成仏・往生・念仏という歩みを通すんですけれども、諸仏の称名が往生という課題を通しまして、信心ということが一大事なんだっていうことを見出せ得ていない我われに、一大事の問題は信心なんだっということを見出さしめようという願心、それによって我われをですね、往生せしめていこう、往生の道を成就させようとする願心ということが、第十七番目の「諸仏称名の願」として誓われているということを、ひとつ受け止めているわけであります。
 そしてまぁ、『観経』の「三心」、あるいは善導の「六字釈」を通しましてですね、自分の中で思い起こされてくることは、どうやって善導大師においてですね、「信心ひとつ」が一大事なんだっていうことがですね、往生の問題を通して見出されてきたのか、凡愚の身に帰ることが自分の人生で一番大切なことなんであると、そして信心こそがですね、同行・同朋といわれる方々と必ず出遇わせる道なんであるということがですね、善導の上においてはどういう形で、これはあのぅ、開かれてきたのかというのは、これはあのぅ、自分としては、疑問として、あります。
 ま、それが逆に言えば、我われ、自分にとっても「国」に呼び返されていく具体的内容なんであるというふうに、取っているわけであります。で、そのことが、冒頭申し上げましたけれど、亡くなった大滝さんの最後の対面でですね、やっぱり「念じられている身」っということと内容が重なってくるんですね。ま、自分が一応言葉を使えば、「念じられている身」に立ち返ることによって、初めて、つまりまぁ、「死ぬに死ねない我われに、死を果し尽くしていく道が開かれる」んであると、こういったことを申し上げる形になったんです。けれども、これはまぁ自分のというよりも瀕死の状態の大滝さんが自分に言わしめたわけでありまして、そういう面でいえば、大滝さんの言葉になってくるわけであります。で、あの時のですね「念ぜられている身」ということが、どういうことなのかということが、今更ながらそこに思わされてくることであります。
 そうすると、これ、あのぅ先ほど申し上げたことですけれども、それで、どういうことが言い表されようとしているのかとなりますとですね、ま、おそらくっていいますか、推察ですけれども、ご自身が本当に末期の癌の辛い病状の中におきまして、肉体的にもまた精神的にも悶え足掻き、喘いでいかれたその中におきましてですね、おそらく、そういう自分の辛さといいますか、苦しさというか、悩ましさ、そういう自分の苦しみ悩みということをですね、共感してくださる方というのを思い起こされたということがあるんだと思うんですよね。ある種やはりそのぅ、自分に先立ちまして自分のそのぅ、辛いこと・困っていることに、おそらく、共感してくださる方がいるっていいますかね、共感されてきたんだということが、その、何か、背景にあるんだということを思うわけであります。自分より肉体的にも精神的にも癌の辛さをですね、先立って経験されてゆかれた方々から、共感されているこの身ということを、辛いんだけども、おそらく最期に感得されていったということを、今にして思うわけであります。
 そのことを通しましてですね、やっぱりそのぅ、病気は治るわけではなく悪化の一途を辿っていくわけですけれども、しかしながら、そういう癌なら癌の身を果し尽くしていくっていうような、意欲とか情熱が呼び起こされてくると。また同時に「死ぬ」というお仕事を果し尽していこうというエネルギーが呼び起こされてくるということが、これは、あるんだと思うんですね。これがつまり、生まれた意義というか、死ぬ意義が開かれることでありますから、そういう面でいえば、こうしたことを通しましてですね、何かそのぅ、この身に、辛い身ということに共感されるっていうことに何か、初めて癌を抱えて生きる・死んでいける力を、なんか、戴いていかれたということを、これは思いますですね。またそういうような生涯の結びであったということも、ご遺族の方々から、まぁ、伺い、言われ、耳にしたわけであります。
 その面でいえば、それこそ苦しみを共感してくださるっていう形でですね、自分の身を念じてくださるという、こういう経験がですね、信心が一番大切なことであるということを、大滝さんをして、あるいは加藤さんをして頷かしめてきた決め手ではなかったかということを、思うわけであります。

          (十二)

 これは、今申したことですけれどもですね、「念仏往生」ということと「信心」と僕は一応区別してみたいということがありましてですね。これはあのぅ、「念仏往生の道」のほうは「伝承」になってくるわけなんでありますが、「信心」のほうはこれはですね、「己証」のほうになってくることもありまして、そこは一応別けてみたい。そのことはですね、つまり自分の悩みとか苦しみということを共感してもらえる、あるいはわかってもらえるということとですね、それからそのぅ、自分がですね、凡愚の身に立ち返ってくということは、重なりつつも区別があるのではないかということを、自分は思うんですね。
 これはまぁ、ある種、「末法濁世」の身を生きるということになりますと、凡愚の身でありますから、結局そのぅ何を共感してくださるか、あるいは何を念じてくださるかといえば、やはりこれは、凡愚の悩み・苦しみを念じてくださる、あるいは凡愚の苦しみ・悩みに共感してくださると、ま、こういうことになるわけですね。
 それがまぁ、「末法濁世」っていう世の中を生きていく力、あるいは凡愚の身を生きていこうとする力になっていくと。そういう形でひとつですね、凡愚の身に立ち返ることが、浄土往生の道なんであると。したがってとりもなおさずそれが我われの一大事なんであるということが、これははっきりと注意をされてくると。それを亡き人のお姿から、自分は思われることであります。
 しかしながら、そのことが直ちに自分の身に於いて、信心が獲得されることとは違うんだと思うんですね。自分の、凡愚の苦しみ・悩みということがですね、先立つ人に共感してもらえるということと、それから、自分が凡愚の身に立ち返る、凡愚の身を自覚するということとは、重なりつつ違いがあるように僕は思うんですね。そこにまぁひとつ、念仏往生の道という「伝承」を通して、こちらが、一人いちにんの「しのぎ」という形で「己証」を迫られてくる内容になってくるように思うのであります。
 なるほど、そういうような凡愚の苦しみ・悩みに共感してもらえるということを通しましてですね、一生涯は信心が一大事なんだと、また信心によって浄土に往生できるんだと、はっきり頷かされてくることはある。で、そこまではひとつ、「伝承」の道としてあろうかと思うわけでありますけれども、それを通しまして凡愚の身に目覚めていく、自覚していくっていう、いわゆる信心の問題になってくるわけであります。ま、こちらはいえば諸仏の咨嗟を俟たれまして、いえば「至心信楽の願」という形で、我われに凡愚の身を自覚せしめようとする願心として、親鸞聖人は受け止めておられるわけであります。
 で、これをひとつ思っていますのは、どういうことかっといいますとですね、なかなか凡愚の身を自覚するっていうことが容易でないっていうことなんですね。それは先ず自覚っていう場合におきましてですね、これはそのぅ、言うまでもないことなんですが「自覚覚他」っていうことでありますから、これは単に自分の身が凡愚の身として目覚めるということだけではなく、相手の身も凡愚の身として目覚めていくという内容になってくるわけであります。で、これはとりもなおさずですね、自分の身が凡愚の身に頷かれることだけではなくしてですね、周りの、相手の方々も凡愚の身であるということに頷かれてくることが、凡愚の身に立ち返るということ、つまり、信心が開かれるっていうことになるわけですね。
 すると、仮になんですけれどもね、ま、自分の身はそういうふうに共感してもらえましてですね、念じてもらえますと、わかってもらえますとですね、何か自分は凡愚の身なんだなあということを感じないわけではないわけですけども、相手がですねえ、相手に対して凡愚の身なんであるということが、そこに、頷かれてくるかとなると、これ、別なんだと思うんですね。
 まあ、自分はこれは、「凡愚の身を自覚する」っていうことはですね、相手に対しましてですね、凡愚の苦しみ悩みを共感できるようになるっていうふうに、これはあのぅ、受け止めています。
 ま、これは、よく肉体の病気のことが出ますけれども、例えば自分が糖尿っていう病気を抱えて、糖尿病の身であるということがわかるっていうことは、これは同じ糖尿病の人に対して、やはり、大変だなあというか、ご苦労だなあっていうか、辛いだろうなあって、身は違うんですけれども、やはりご苦労だなあって相手の糖尿病の悩み苦しみに対して共感することができるっていうことでしょ。健康な者や糖尿病を患っていない者にとりましては、糖尿っていう病気はこういうものなのかなあと推察するくらいでありましょうけれども、現に糖尿病を抱えている者にとりましては、それは大変ですね、ご苦労ですね、さぞかし辛いでしょうねってこれは否応もなく、相手の糖尿病、苦しみ・悩みに共感できるっていうこと、これが、自分が糖尿病を抱えていることっていうことを自覚しているっていうことになるわけでしょ。
 だから、仮にその相手の糖尿病の方に共感できないならば、自分はまだ糖尿病の身であるということが自覚されてないということなるわけでしょ。これはまぁあるわけですね。肉体の病気でしたら、こういうことがあるわけですね。
 ところが「凡愚」となりますとですね、ひとまず、平凡にとっておきますとですね、やっぱりそのぅ、煩悩に振り回されまして、絶えず煩悩に動かされていくっていうことですから、これはあのぅ大雑把にいいますとこれは欲を掻いたり腹を立てたりしているような生き方というように、まず申し上げておきます。
 そうしますとですね、そのぅ、自分は欲を掻いたり腹を立てているような身なんであるということは、一応、わからないわけではないです。で、やってきたことは貪瞋煩悩そればっかりであるということも、わからないわけではないわけですよ。ところがあのぅ、人が示してくる貪瞋煩悩に動かされてくるような生き方を目の当たりにしますと、ですよ、例えば、まぁ、非常に欲を掻いているっていうことを目の当たりにしますと、あるいはまた、自分に向かっていろいろ腹を立てられますと、ですよ、「ああ、やっぱり凡愚の身なんだなあ」と、「辛いだろうなあ、ご苦労だなあ、大変だなあ」というようにですね、相手が腹を立てることや欲を掻くことに共感できるかとなると、なかなかそうはいかない問題が出てくるわけですよ。
 ま、我われのことでいいますとですね、今日、この会の後で一杯呑みますけどね、一杯呑みまして先に酔っぱらった奴を見ますとですね、「先に酔っぱらっていい気になっている」ってなりますし、後の面倒を見るとなると、やっぱ何か面白くないわけですよ。酔っぱらいの面倒を見るとか、みみっちい話になりますけど「彼奴の分まで全部会計を」とかって、なりますからねえ。「彼奴だけたらふく呑んで、しかも先に酔っぱらって何だ!」となるわけですよ。で、自分に向かってガンガン言ってきたり、あるいはねちっこく言われてくるとするでしょう。それはやっぱり相手も怒りを示してくる姿で、これまた凡愚の在り方なんですけれども、他人事として見ている場合はいいかと思いますけれども、自分に向かっていろいろ何か怒られたり叱られたり、あの、ねちっこくやられたりということになりますとですね、叱られて「はい。わかりました」となるかというとむしろならなくて、そのことそのものにムカムカしてくるということがあるわけですよ。叱るのも、怒るのも無理ないことだなあということを思わないわけではないんですが、しかし、そんなふうに言われますと自分のほうとしては、かえってムカムカしてくるということが、これは実状としてあるわけですよ。

 

          (十三)

 今日、これは「悪世」の内容としまして、言葉としては「格差社会」ということが、これは、非常に強く言われております。ま、「勝ち組」「負け組」という言葉がかなり流行ってきたわけであります。いわゆる「弱肉強食」「優勝劣敗」といった時代社会ということが、露になってきたわけですね。『無量寿経』では「五悪段」の一番最初に、「強者伏弱」ですね、「強き者は弱きを伏す」。「転た相剋賊し残害殺戮して迭いに相呑噬す」と。こういうような表現が、もう、いきなり出てくるわけであります。「格差社会」ということも、そういう面で言えば「優勝劣敗」、あるいは「強者伏弱」というこの在り方が、鮮明に出てきているということになるでしょう。
 で、こういう中におきましては、結局どういう生き方になってくるかといえば、これは、「強い者には媚び諂い、弱い者には威張っていく」という、こういうような生き方になるわけですよ。ま、特に男の生き方って、だいたいこうなるわけですよ。「自分よりか強いなあ」と思った者に対しては、これはもう媚び諂っていくでしょうし、「自分よりか弱いなあ」と思ったら、逆に威張っていくということがあるわけです。こういうように、これはもぅ、意識しない形でやってきているわけであります。実際、こういう「強者伏弱」っていう形で言ってくる「悪世」の内容は、本当に弱い者を餌食にして成り立ってくるような世の中でありまして、これはもぅ、いいも悪いもなくて、事実なわけですね。
 そういうことになりますとですね、もう、程度の差こそあれですね、人の顔色を右顧左眄しまして、まあ、ある時はペコペコと媚び諂って、まあ、尻尾を振っていく、と。またある時は、威張って踏ん反り返えると、そういうことを僕らはやっているわけですね。
 で、そういう姿を見ますとですね、僕はそうなんですけどもねぇ、「悲哀を感ずる」となるんですけれども。なにかやっぱり、「汚い」というか「卑しい」というのが、非常に出てくるんですよね。そうしたことが「凡夫の在り方」になってくわけでしょうけれども、「ああ、そうだなあ」というような形で受け取りきれない自分の姿っていうことがあるわけですね。
 ま、今日、私どもの大谷派教団におきまして、差別の問題、戦争の問題が非常に多く出てくるわけですけれども、差別という問題は、「内と外」と「上下」の関係という両面があるのだと。ま、これは、内が外を排斥する・除外するということよってですね、上位の者が下位の者を支配し・隷属させていくということが、差別の内容なんであると言われるわけであります。
 そして、僕が本山に行っての感じなんですが、元々なんだと思うんですけれど、非常に今の大谷派本山に僕は感じることですが、差別ということに神経質になっている、異常なまでに神経質になっていると思いますですね。「それは、あってはならないことなのである」と、いうことでありましてですね。
 しかしまぁ、「五悪段」の内容で、例えば「強者伏弱」というこういう在り方というのが、ひとつ、今でいえば「差別」という言葉にもなるのかなあと、こういうように思うんですね。ま、「強きが弱き者を挫いていく」となりますと、「強き者が弱き者を支配・隷属させていく」、あるいは「力の上位の者が下位の者を屈服させていく」ということになるわけですから、広い意味ではこうしたことも「差別」の内容・在り方になってくるわけでしょう。で、こうした在り方が「凡愚」といわれてくる在り方であるとするならば、それだけ「差別する」なら「差別」ということに、非常に神経質になっていること自体がですね、「強者伏弱」といわれてくるような、我われ凡愚の在り方が、あるいは「末法濁世」「五濁悪世」に生きる凡愚の在り方ということが、なかなか容認できないということが、裏側に指し示されているということが、何か思わされるわけであります。
 ま、そうしたいろんなことを思わされますと、やはりそのぅ、「凡愚の身を自覚する」っていうことは、とりもなおさず、やはりさまざまな「凡愚の業」にこちらが共感できるようになるというように私は取るわけでありまして、「わかる」っていうことは、あるいは「目覚める」っていうことは、相手の辛いこと・悩みに共感できるようになると。相手の心根がわかるようになるということでありますから、これはやはりその面でいえば、自分の凡愚であるということが共感されることと、自分が凡愚の身として自覚するっていうことは、やはりこれは一応、違いがあるというふうに、私は見たいわけであります。
 おそらくこれは、「凡愚の身として相手に同感する」ということを通しまして、お互いに凡愚と凡愚という面では、やっぱり共感し合うような、お互い、相念じ合うような世界が開かれてくるっということでありますから、そういう面で言えば、信心が、平等一味な世界を開いてくるということですから、それだけにまた、「凡愚の身に立ち返っていく」ということは、やはり容易ならざる問題としてあるのではないかと思うんですね。
 ま、今日、そういう面でいえば、なかなか、「信心ひとつ」が問題になり得ていないということのほうが、実状としてあるのではないかと、私は思うわけであります。
 ま、これは上手く申し上げられないのですけどねえ。ですからまぁ、当然ながら「凡愚の身に共感される」ということを通して初めて、信心が、凡愚の身に目を覚ますことが、我われをして浄土に往生せしめてくるんだということが、これは見出されるということでありまして、これは一応、亡き方々を通して思わされることでありまして、したがって、どうしたら自分が凡愚の身として自分が共感されるのかっていうことが、これもまた、問題が出てくることであります。そこにひとつ、「念仏もうしていく」っていうことの、難儀さというか、大変さが出てくるというふうに、思うわけであります。

          (十四)

 しかしながらそういう面でですね、ええ、自分はですね、凡愚の身をわかっていないということが、相手の身に共感できないっていう形で露になってくると。そういう形で「信心」がはっきりしてないっていうことが露になってくるっていうことを思うわけであります。
 ま、さきに申し上げましたそういう亡くなった方々が示してくださる、「信心が一大事なんだ」ということを教えてくださるということを通しますならば、今日は、「信心が一大事なんである」ということがなかなかはっきりしていないという在り方が、一面では思わされますし、同時にまたですね、仮に、「信心が一大事なんだ」ということが見出されましてもですね、そこからですね、どうしたら信心が開かれてくるのか、どうしたら凡愚の身に目覚めていけるのかと、こういう問いになってくるのでありまして、このことの問いがこれからですね。これはまぁ、廣瀬先生も「己証の課題」ということ、その一点として、僕は聞かせてもらったわけであります。
 ま、「念仏往生」という伝承された道を通しまして、初めて、そういう凡愚の身にどうやったら立ち返れるか、あるいは、何をして我われに凡愚の身に目覚ましめるのか、この問題が、唯一の根本問題として、掘り下げられてくるのだと、こういうふうに自分の中で感じているようなことなんであります。
 ま、それを思いますとですねえ、やっぱりそのぅ、「聞き続け、聞き続け、聞いて聞いて聞き抜け」と、そういうふうに言われてくる意味もですね、やはりそのぅ、まずいえば、「信心が一大事なんである」ということがはっきりするまで、聞いて聞いて聞いてゆけと。そしてまた、凡愚の身に目を覚ますまで、更に聞いてゆけと。こういうことが呼び掛けられているんだろうなというふうに、声が受け止め直されることであります。
 しかしなかなか、こちらが聞き続けられない、あるいは聞き抜けないと。途中で止めてしまったり、あるいは途中でおかしくなっていってしまうということは、そこから見れば、逆に言えば、「信心ひとつが一大事の問題」として、なかなかなり得ていないという在り方を照し出されてくるということも、感じるわけであります。
 ま、今日、「信心ひとつが根本問題である」ということがはっきりしていないということが、これは、いろんな形で出てきているように思うんですね。だから、「凡愚の身に目を覚ます」というそんなことよりも、もっともっと大事なことがあるだろう、あるいは、もっともっと今やらなければならないことがあるだろうという、こういう見方・考え方が世の中の趨勢でもありますし、それがまた「南無阿弥陀仏」を掲げる教団の趨勢にもなっているかとも思うわけであります。
 ま、「信心ひとつが一大事」としてなり得てないという在り方が、さまざまな具体的な姿・形をとって、現われ出ているということを思うわけであります。で、そういう在り方を踏まえる形で、亡くなった方々がそうでしょうし、諸先生・諸先輩方が私どもに向かって、「念仏もうせ」「念仏もうせ」とそのことひとつを呼び掛けておられるということを、今更ながら思われることであります。「信心ひとつが一大事の問題になっていないぞ」ということが、唯ひとつ呼び掛けられているでしょうし、同時に、「信心ひとつ」を「一大事」として、きっちりとさせてゆけと、こういうことがまた、「念仏もうせ」ということで呼び掛けられているのではないかということも、これは思うことであります。
 まあ、自分の先生となりますとですね、これはよく仰っておられるわけでありますけれど、「凡愚に帰れ」「凡愚の身に目を覚ませよ」と。このことしか語らないわけでして、常々、これはまぁ、先生のおっしゃっていることは、こればっかりなんですね。それこそ、これしか言わないもんでありますから、非常にくどいとかしつこいとか、辟易するってな形で、まぁ、嫌がられるわけであります。まあ、確かにですね、「信心ひとつ」でそれ以外のことは語らないということと言っても、過言でないと思いますですね。しかし僕はまぁ、そのことが我われに、「念仏もうせ」という声として響いてくるといいますか、それこそ「信心こそが一大事である」ということをですね、身をもって示してくださる姿なんだと思うんですね。「信心こそが一大事である」と見出されておればこそですね、もうそのことひとつをですね、繰り返し巻き返しですね、力説・強調されるという姿になってきているということを、思うわけであります。
 ま、時間になりました。ここに、廣瀬先生もお見えになりましてですね、お互いにこれは「己証の課題」っていうことでですね、やっぱり自分としてはそのぅ、「信心を開く」という、「凡愚の身に自覚していく」というこのことひとつが、念仏往生の道が「伝承」されることを通しての、突き付けられてくる課題ということに思うわけでありましてですね。ま、本当はもう少し、念仏往生の道をはっきり言えるようにならねばならないんですけど、一応、そうしたですね「成仏」「往生」「念仏」というような根本問題の展開、そしてそういうことを通しまして、それを一応の目印として踏まえた上で、「信心」、そこに的を絞って、お互いに力を合わせて、「凡愚の身に立ち返っていく教え」というのを聞き開いていきたいということが、自分が念願するところであります。
 ま、そこからが本番っていうところなんだと思いますが、今日は「一行の会」っていうこともありましてですね、「念仏をもうす」ということはどういうことなのかと、あるいは、「国に呼び返されていく」っていうことが、どういうことなのかと。そういう面で「南無阿弥陀仏」とはいったいどういうことが言われてくることなのかと、そういうことでもう一遍問いを出し直す形で、ご勘弁いただければと思うわけであります。そして、一応の、こういうことを復習し直す形でですね、廣瀬先生はおっしゃっていますけれど、本当に「己証の課題」ということに、全力を尽して、取っ組んでいきたいということが、これは廣瀬先生だけでなく、自分も廣瀬先生の還暦を通しましてですね、思わされることであります。
 時間になりました。一応五時ですので、置かせてください。失礼しました。  
                                 (了)

 

 

 

 

  大島義男 略歴
   一九四八年十一月生まれ。
   真宗大谷派の「東京大谷専修学院」事務職員を経て専任講師を学院「廃止」まで勤める。
   現在は、東京において開かれている「雲集学舎」の代表世話人。また、全国各地の聞法
   会の講師を勤める。
   二〇〇一年から本山においての教師修練の「指導」を七回ほど勤めるが、本山における
   「ヒューマニズム」を「真宗の教え」とする側から、「指導として非適任」と判断された。

 

 

                 二〇〇七年(平成十九年)一月二十二日
                 東京都西東京市 真宗大谷派・遍立寺において、
                 「一行の会」例会にての大島義男特別発題の採録による。
                                 (文責 大竹 功)

立読みコーナー目次